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香川県
かがわけん
香川県
屋島から望む高松市街と瀬戸内海
香川県旗
国
日本
地方
四国地方
中国・四国地方
団体コード
37000-2
ISO 3166-2:JP
JP-37
面積
1,876.53km²
(境界未定部分あり)
総人口
992,489人
(推計人口、2011年11月1日)
人口密度
529人/km²
隣接都道府県
徳島県、愛媛県、岡山県
(海上を隔てて隣接)兵庫県、広島県
県の木
オリーブ
県の花
オリーブ
県の鳥
ホトトギス
他のシンボル
県の魚:ハマチ
県の獣:シカ
香川県庁
知事
浜田恵造
所在地
〒760-8570
香川県高松市番町四丁目1番10号
外部リンク
香川県庁
■ ― 市 / ■ ― 町
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日本の都道府県/香川県
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香川県(かがわけん)は、瀬戸内海に面し、四国の北東に位置する日本の県の一つ。令制国の讃岐国に当たる。県庁所在地は高松市。県名は、讃岐のほぼ中央に存在し、かつて高松が属していた古代以来の郡「香川郡」から採られた。
目次
[非表示] 1 概要
2 地理 2.1 広ぼう
2.2 自然公園
2.3 気候
2.4 地域区分
3 歴史 3.1 原始・古代
3.2 中世
3.3 江戸時代
3.4 近代 3.4.1 香川県発足
3.5 現代 3.5.1 平成の大合併
3.6 讃岐の大地震(判明しているもの)
4 行政 4.1 知事 4.1.1 官選による知事
4.1.2 公選による知事
5 財政 5.1 2006年度(平成18年度)の財政指標
5.2 2005年度(平成17年度)の財政指標
6 国政 6.1 衆議院
6.2 参議院
7 香川県議会
8 治安
9 人口
10 経済 10.1 第一次産業
10.2 第二次産業
10.3 第三次産業
10.4 拠点事業所を置く主要企業
10.5 香川県で創業した主要企業
10.6 特記事項
11 学校 11.1 小学校
11.2 中学校
11.3 高等学校
11.4 高等専門学校
11.5 大学・短期大学
11.6 専修学校
11.7 学校教育以外の施設
12 姉妹提携
13 文化 13.1 方言
13.2 生活特性
13.3 特産品 13.3.1 食品
13.3.2 伝統工芸品等
14 観光 14.1 うどん県
14.2 史跡・名勝
14.3 その他の名所・観光スポット
14.4 公園・テーマパーク等
14.5 祭事・イベント
14.6 文化施設
15 地域
16 交通 16.1 航空
16.2 鉄道路線
16.3 バス事業者
16.4 道路
16.5 海上
17 メディア 17.1 新聞
17.2 タウン情報誌
17.3 テレビ局 17.3.1 区域外受信の状況
17.4 ラジオ局 17.4.1 コミュニティFM局
17.5 ケーブルテレビ局
17.6 その他
18 香川県を舞台にした作品 18.1 ドラマ
18.2 映画
18.3 テレビ番組
18.4 小説
18.5 漫画・アニメ・ゲーム
18.6 音楽
19 香川県を本拠とするスポーツクラブ
20 香川県出身の有名人
21 脚注
22 関連項目
23 外部リンク
概要 [編集]
かつては日本で2番目に面積の狭い都道府県だったが、1988年に国土地理院が面積の算定法を見直して香川郡直島町の面積が削除されたため、大阪府に代わって日本で最も面積の狭い県となった[1]。ただし、その後大阪府が関西国際空港などの埋立地を造ったために大阪府の面積は以前より増えており、直島町の面積14.2km²分が復帰したとしても香川県は最下位のままである。現在では岐阜県高山市よりも面積は狭い。一方平野は、県土のほぼ半分を占めており、その率は高い。
古来より雨量、河川の流水量ともに少なく、旱魃に備えて、県内各地に14,000を超える数のため池が造られ点在している。平野が多いことから、県全体の人口密度が高い。
北部に広がる瀬戸内海には、小豆島など多くの島々が点在している。本州の岡山県とは島々を伝う形で架けられた瀬戸大橋により、道路・鉄路で結ばれている。瀬戸内海を越えた岡山県や、鳴門海峡を越えた近畿地方との繋がりが深い。特に岡山県との間においては、民間テレビ放送局が同一のエリアになる程であるが、同時に対抗心も強い。
麺のコシがしっかりとした讃岐うどん、こんぴらさんの愛称で親しまれる金刀比羅宮、空海の生誕地としても知られる善通寺(四国八十八箇所の一つ)、寛永通宝の銭形砂絵で知られる観音寺、対岸の倉敷市児島から坂出市にかけて海上に架けられた瀬戸大橋が有名である。
正月には、餡餅の入った白味噌仕立の雑煮「餡餅雑煮」を食べる風習がある。江戸時代、讃岐の国では塩・砂糖・木綿が特産で、「讃岐三白」と呼ばれていた。このうち砂糖は幕府への献上品として多くが用いられ、庶民の口には滅多に入らなかったことから「せめて正月ぐらいは砂糖を使った餡の入った甘い餅を食べたい」という思いから餡餅雑煮が誕生したと言われている。
香川県庁舎の設計者は丹下健三。この他にも、丹下は香川県立体育館や県営一宮団地も設計している。
香川県は国内でも指折りの県民の貯蓄率を誇る。温暖な気候風土で、堅実な小金持ちが多く、四国お遍路へのお接待の精神もある。
県内を供給区域とする電力会社は四国電力であるが、岡山県に隣接した島嶼部である香川郡直島町及び小豆郡の全域は海底地形の理由から、四国電力ではなく中国電力の供給区域となっている。
地理 [編集]
讃岐平野と讃岐富士
香川県は四国の北東部に位置し、北部には瀬戸内海に面して讃岐平野が広がる。南部には讃岐山脈が連なる。最高峰は竜王山で1059.9メートルあるが、丘陵部は500 – 800メートルで各地峠越えに行き来が行われた。
多島海である瀬戸内海には小豆島をはじめ、塩飽諸島や直島諸島など約110余りの島々が存在する。
川が少なく、またどれも33 – 38キロぐらいで短いため、昔から渇水対策に手を焼いてきた。このため、道守朝臣(みちのかみあそん)が造り、空海が修築したことで知られる満濃池をはじめとするため池が県内に14,000余あり、国内有数の数である。
行政区分:日本、四国地方
川と平野:湊川と鴨部川の大川平野、新川・春日川と香東川の高松平野、綾川と大東川の坂出平野、土器川と金倉川の丸亀平野、高瀬川と財田川の三豊平野、他に詰田川、御坊川がある。
ため池:満濃池は日本一の規模を誇る。
用水:香川用水
広ぼう [編集]
[表示]節内の全座標を示した地図 – Google
節内の全座標を示した地図 – Bing
国土地理院地理情報によると香川県の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは92.15km、南北の長さは61.29kmである。
北端
北緯34度33分53秒東経134度20分48秒
↑
西端
北緯34度6分28秒東経133度26分48秒←
中心点
北緯34度17分18.5秒東経133度56分49.5秒
東端
→北緯34度14分24秒東経134度26分51秒
↓
南端
北緯34度0分44秒東経133度41分17秒
重心
北緯34度14分47秒東経133度59分38秒
自然公園 [編集]
国立公園 瀬戸内海国立公園(元濱崎公園)
県立自然公園 大滝大川県立自然公園(元圭公園)
気候 [編集]
気候は、瀬戸内海式気候で、晴天の日が多く雨量が少ないのが特徴である。日照時間が長いことが塩の生産・発展に役立ち、「塩田王国香川」と言われた。しかし、少雨の傾向は夏場に多く水不足をもたらし、大雨になると河川が氾濫し、洪水をもたらした。
積雪も一冬に1 – 2回程度は起こるが、大雪は少ない。また、夏は瀬戸内海の「凪」や四国山地越えのフェーン現象などの影響で、猛暑日や熱帯夜になる日も少なくない。
香川県内各地の平年値(統計期間:1971年 – 2000年、出典:気象庁・気象統計情報)
平年値
(月単位)
東讃
西讃
小豆島
内海
東かがわ市
引田
高松
高松市
香南
綾川
滝宮
多度津
三豊市
財田
平均
気温
(℃)
最暖月
26.6
(8月)
26.8
(8月)
27.4
(8月)
26.6
(8月)
27.7
(8月)
26.5
(8月)
最寒月
5.1
(2月)
5.1
(2月)
5.3
(1月)
4.3
(1月)
5.8
(1、2月)
4.4
(1月)
降水量
(mm)
最多月
170.5
(6月)
158.2
(6月)
158.5
(6月)
171.6
(6月)
164.3
(6月)
177.0
(6月)
最少月
24.7
(12月)
25.4
(12月)
33.8
(12月)
34.7
(12月)
31.7
(12月)
39.0
(12月)
地域区分 [編集]
地域名
自治体
広義
狭義
東讃
小豆地域
小豆郡
東讃
さぬき市、東かがわ市、木田郡
高松地域
高松市、香川郡
西讃
中讃
丸亀市、坂出市、善通寺市、綾歌郡、仲多度郡
西讃
観音寺市、三豊市
地域区分は広義・狭義とも県民生活の基盤にもなっており、この区分によって気候・風土・方言(讃岐弁参照)なども異なっている。
東西に長い香川県を分けて考える場合、最も多く用いられるのが五色台を境に東部を「東讃」(とうさん)、西部を「西讃」(せいさん)とする概念である。この名称は香川県が旧讃岐国の範囲と合致しているため、旧国名である「讃岐」に東・西を冠した言い方である。このスケールは県民の会話上でも西讃のことを「西の方」や単に「西」、東讃のことを「東の方」や単に「東」と呼ぶことで通用するほど定着した概念である。
この方式に沿った言い方に「中讃」(ちゅうさん)があるが、こちらはより狭い範囲を表すものであり、このスケールでは同じ「西讃」といった場合でも指し示す範囲が異なる。同じように「東讃」も高松地域・小豆地域を除いた範囲を指す狭義が存在する。小豆地域は狭義の東讃にも含むとする概念もあるが、小豆島は航路で結ばれているのが全て高松であるため、直接の結びつきがない香川県東部とは分けて小豆地域、あるいは単に小豆島とする場合が多い。
その他にも、東讃に高松市を含んだ上で残りの西部を中讃、西讃の計3つで分ける概念もあるが、この場合では県都の位置する地域が中讃てあると捉えられる場合があるため、あえて県都の高松市を別格として「高松地域」とする場合がほとんどである。
行政区分や天気予報、県立高校の学区などでも用いられるこの区分は自治体ごとに区切られているため、市町村合併により所属地域が変化する例が多く見られた。特に平成の大合併では高松市へ合併した綾歌郡国分寺町の所属地域が西讃から東讃へ変わったほか、木田郡庵治町と牟礼町が同じく高松市への合併により、狭義の東讃から高松地域へ所属地域が変わった。
歴史 [編集]
「讃岐国」を参照
原始・古代 [編集]
約2万年前の旧石器時代人が永く住み着いた国分台遺跡群が知られている。同遺跡群は、高松市と坂出市の境に南北にのびる標高400メートルの台地上および斜面上に立地し、高松市(旧綾歌郡国分寺町)に所在する。そこからは、サヌカイト製のナイフ形石器、尖頭器、楕円形石器、舟底形石器、錐などの生活必需石器が大量に出土した[2]。
縄文時代晩期後半の林防城遺跡(高松市)で、当時の土器と木製諸手狭鍬が出土しているなどから、県下にも稲作が伝播し、水田耕作が行われたと推定されが、他に水稲耕作に直接かかわる道具や同時に伝播するはずの文化要素が見当たっていない。また、水稲耕作に従事したムラの形跡がない。[3]
『日本書紀』などには讃岐国は洪水や旱魃、地震などの自然災害が多い土地であると記されており、讃岐ではため池の開発や雨乞い儀式などが行われていた。大宝年間から工事が開始され、弘法大師空海が修築工事を指導したとされる満濃池のほか多くのため池が開発され、それより耕地は灌漑された。菅原道真も、一時は讃岐国国司となっている。
平安時代には関東地方での平将門の乱に乗じて藤原純友が伊予国で蜂起し、純友は讃岐国の国府を陥落させた。朝廷が追捕使として小野好古を派遣すると讃岐国の武士も乱の平定のために戦う。保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐国に流刑され、讃岐国で死んだ。平安時代後期には源平合戦の1つである屋島の戦いが行われる。一ノ谷の戦いで源義経に敗れた平氏は屋島の戦いにおいても義経軍の背後からの急襲で敗北し、以後平氏は瀬戸内海における制海権を失った。
中世 [編集]
鎌倉新仏教派の法然も流刑されたことで有名。足利尊氏らの活躍で鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇の建武の新政が始まると、讃岐国には足利氏の一門である細川定禅が入った。以後、南北朝時代を経て室町時代を通じて、細川氏が守護大名として讃岐国を支配した。室町幕府内での政争に敗れて南朝に与した細川清氏は、従弟の細川頼之と戦い、敗れた(白峰合戦、現宇多津町・坂出市)。
讃岐国では、管領を務めた細川京兆家が室町期を通じて守護職を執った。このため阿波国人と同様に讃岐国人も中央へ出る機会が多く、香西、香川、安富、奈良の四氏は細川氏四天王と称されたという(南海通紀)。戦国時代初期には讃岐国人と思われる香西氏が山城国守護代を務めるなど重職にも就いた。
戦国時代には讃岐国の分郡守護代である安富氏と香川氏が東西で大きな勢力を擁し、両者中間の香川、阿野、鵜足郡に長尾氏、奈良氏、羽床氏など中小豪族が乱立していた。しかし安富氏が細川・三好氏の援助を受けた三木郡の十河氏によって滅びると、若干の抵抗があったが讃岐国は三好氏の支配下に入った。三好氏は三好長慶の弟である十河一存に讃岐国を任せた。真偽は不明だが、この時期に毛利氏が讃岐に攻め入った元吉合戦があったとされる。
長宗我部氏が三好・織田氏の内乱に乗じて讃岐へ侵攻してこれを平定する。豊臣秀吉が四国征伐を行うと讃岐へは宇喜多秀家を総大将とする豊臣軍が侵攻し、長宗我部元親が秀吉に屈服すると讃岐は仙石秀久に与えられ、その後は尾藤氏、生駒氏が相次いで封ぜられる。当初は宇多津聖通寺城に拠点が置かれたが、手狭のため高松に新城が築かれ拠点とされた。
江戸時代 [編集]
丸亀城(国の史跡・重要文化財)
生駒氏が生駒騒動によって出羽国へ移されると、水戸徳川家の嫡流である松平頼重が高松に入って東讃高松藩12万石を、京極氏が丸亀に入って西讃丸亀藩5万1千石を領する。途中、京極丸亀藩は支藩として多度津藩1万石を分立させたため、江戸時代の讃岐国には3つの藩が並立することになった。高松藩からは平賀源内が出ている。